エッセイ

キエフ Part 1 マーラー交響曲第2番—復活

 グスタフ・マーラーの交響曲第2番『復活』は、全5楽章約80分かかる大作である。モーツアルトの後期交響曲一曲分に匹敵する長さの第一楽章は、マーラーの交響曲第一番『巨人』で描かれた一人の勇者の葬礼である。即ち「何故」と執拗に繰り返し叫ばれる人生への根源的な問いかけ、走馬灯のように回想される勇者の在りし日々からなる、交響詩/葬送行進曲となっている。

 苦悩を未だ識らず無垢で幸せだった青年時代を追憶する第2楽章。
 
 第3楽章は、煩悩に充ち支離滅裂な人間界を魚にたとえ、彼の歌曲『魚に説教するパドヴァの聖アントニウス』が引用される。聖アントニウスが天国を説き地獄図を表現するたびに感嘆の声をあげる魚達が、次の瞬間には全てを忘却して空疎に泳ぎ(踊り)続けるのである。



 
 総勢300名近くの合唱と大オーケストラ、アルトとソプラノの独唱者を用いる第5楽章のフィナーレでは、最後の審判の開始が告げられ、召喚する声とラッパが響きわたる。 大地が震え墓穴は開き、引っ立てられた死者たちの、慈悲を乞う身の毛のよだつ絶叫が続く。他方では、聖アントニウスが説いていた至福の天国が開示され、恐怖のため凍えた小動物のようにおののく魂は、天使達の声に導かれて翼を得て飛び立ち、眩い原光に同一化してゆく。
 
 中有に迷った魂達さえたちまち救済してしまう観があるこの曲を指揮するのは、あたかもダンテの『神曲』のように、生身の人間のままで次元を超え宇宙の果てを垣間見るような体験である。従って、指揮後5、6ヶ月は肉体的・精神的なリハビリが必要となる。私は『復活』を1995年5月に初めて指揮した後、曲の壮大さと自分の卑小さを痛感するとともに、「この曲は、研鑚を続けながら5年に一度挑戦する曲だな」と思った。すると偶然にも2000年5月に再びこの交響曲を指揮する機会がやってきた。
 
 2000年2月、ウクライナのリヴォフ国立歌劇場でのオペラ『アイーダ』を終えて、首都キエフの国立歌劇場との翌年の『椿姫』の打ち合わせのために、京都とも姉妹都市である古都キエフを初めて訪れた。しかしながら、街並みも人々も美しいキエフで、もう数ヶ月後に迫った『復活』第4楽章冒頭のアルトが歌う一節の謎が解けず、頭を離れない。それまでの4年半、書物も読み漁ったが一つとして手がかりはつかめなかった。
 
 第4楽章 『原光』は、前述の壮絶な最終楽章の直前にアルトが歌う数分の短い歌曲となっている。前奏もなく冒頭から直接"おお、赤い小さな薔薇よ!" と歌い出す。すぐにスラブ系ユダヤ人の村落の葬礼で聞かれるような金管コラールが、天国のバンドとして演奏される。

 それに続いて第三者の観察として "彼は困窮の極みに横たわっている!彼は苦しみの極みに横たわっている!"とあり、第一人称となった彼が、 "それでも私は天国に行きたい" と続く。中間部は、おぼつかない逍遥を連想させるオーケストラの後、 "気がつくと私は広い道をたどっていた。すると天使があらわれ、追い返そうとした。ああ、いやだ!私は追い返されたりするものか!"
 
 ここで、伴奏は天国が思念される情景にかわり、 "私は、神のもとから出たから再び神のもとに戻るのだ!慈愛に満ちた神は燈火を私に与えて、永遠の至福に満ちた生に、光で照らして、導いてくれるはずだ。" と結ぶ。
 
 それでは、唐突に見える冒頭の赤い薔薇の一節はいったい何故そこに置かれたのか。何を意味するのか。誰のセリフなのか。前奏無しで、つぶやくような最弱音(ppp)、しかも感嘆符つきである。その謎を解く手がかりに、この2000年2月のキエフ訪問中偶然遭遇した。
(以下次号に続く)

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