2004年10月11日の事件の後、沢山の方々から御見舞いのメール、御電話、電報、御手紙を頂き感激しました。改めて御礼申し上げます。事件の経緯は、エッセー欄に『コスタリカ事件』と銘打って掲載致します。ご照覧ください。
小曽根真さんが10月29日と31日、ご自身のピアノ協奏曲『もがみ』の海外初演をコスタリカ国立交響楽団(OSN)と演奏してくださいました。リハーサル時から彼が第2楽章の哀しみ等を説明し弾いて見せると、皆目を拭っていました。第1楽章終了時、そしてフィナーレ終了後の熱狂的な拍手・声援に応えての彼のアンコールは、”Where
Do We Go From Here?"。2001年9・11の後小曽根氏が創った独吟的な曲で、9月8日(私の事件の約一ヶ月前)楽器を守ろうとして凶弾に倒れたOSNバス・クラリネット奏者のホセ・マヌエル・ウガルデ氏に捧げられました。涙が舞台上の全員の傷ついた魂(私もステージで聴きました)を洗い清めてくれて、最後の高潔で静かな『アーメン』が鳴り終わったあと、しばらくは拍手も起こらない静寂に国立劇場は包まれました。
小曽根さん、有難うございました。彼が体現する音楽の喜び、渾身の打ち込みを間近に見て、オーケストラは短期間で格段に成長しました事をご報告申し上げます。 御陰様で、後半のベートヴェンの交響曲第7番は金曜、日曜とも驚くべき演奏となりました。
さて、2005年コスタリカ交響楽団シーズン(2005年3月ー11月)と、2005年度セントラル愛知交響楽団定期演奏会プログラム をご参照ください。OSNでは、腰越満美さんを迎えての『蝶々夫人』や9月の日本ツアー(国交樹立70周年記念及び愛知万博参加)も楽しみです。セントラル愛知響副団長の山田貞夫ご夫妻とご友人27名の方々が、コスタリカにまでいらっしゃって、上述の小曽根さんとのコンサートを満喫して行かれました。 心より御禮申し上げます。
皆様の御健康祈念いたします。
2004年11月
小松長生
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『コスタリカ事件』
(1) 質疑応答
Q1. いつ、どこで襲われたのか?
2004年10月11日(月)の10:30PM頃、ホテルの向い側で、拳銃をもった4人組に襲われた。
Q2. いつも夜ふらふらと歩いているのか?
国立響(OSN)は、車と運転手を早朝から夕食時も含めて芸術監督につけている。 コスタリカ到着日以来、 OSN理事、スタッフ、支援者との深夜に及ぶ会合・夕食が7日連続で続き、疲労で運転手も風邪気味になっていた。リハーサルは毎日昼間に行われる為である。 そこで月曜(11日)はドライバーを返し、ホテルから200Mくらいにある、ディスコ、レストランが集まった『エル・プエブロ』に歩いて行き食事することにした。 夕食後三人で歩いてホテルに戻るところだった。
Q3. 何が起こったのか?
4人の若者が絡んできて、小柄な少年がいきなり私の鼻を殴った。 私はその一撃で出血(骨折)。 三人ともそのときほぼ同時に、明らかに薬物中毒で情緒不安定に見える年長のリーダーが拳銃を構え、しかも動転している様を観止めた。 事務アシスタントのロザバル氏はスペイン語で、「我々は旅行者ではない、抵抗はしない」と彼等を落ち着かせ、私たちは一切抵抗せず、相手を興奮させないようにした。 彼等は、ポケットの6000円相当の現金とロザバル氏の携帯電話を盗ると、近くに停めてあった車で逃走した。 この間約45秒であった。
Q4. その約一ヶ月前 OSNバス・クラリネット奏者が楽器を奪おうとした暴漢の凶弾に倒れた事件があったと聞くが。
ホセ・マヌエル・ウガルデ氏(愛称チェチェ)は、2004年9月8日夜頭部に4発、計7発の弾丸を受けて即死した。楽器は未だ見つかっていない。楽員はもとよりコスタリカ国民が衝撃を受け、チェチェの葬儀全部がテレビで全国放映された。 その週末の定期演奏会(客演指揮者)には,R.シュトラウス「死と変容」等バス・クラリネットが重要な曲が載っていたが、あえて代替エキストラを置かず聴衆にチェチェの「音」を想ってもらうことにした。
団員一人一人、独奏者、指揮者が 舞台登場の際花を1輪ずつチェチェの空席に重ねていった。 私が10月4日にコスタリカに到着した時点でも、皆の心の傷跡はとても深く楽員達は精神療養士の派遣を事務局に要請しているところであった。
Q5. コスタリカは軍隊を持たず「中南米のスイス」、「非武装」を謳った憲法、アリアス元大統領のノーベル平和賞受賞等のイメージがあり、このような事件の連続は意外の感がするが。
コスタリカの教育、医療、文化水準の高さは、インテル・コルゲートなどの海外投資も呼び、中南米諸国の中で格段に安定し繁栄している。 それだけに、極貧の近隣諸国からの不法入国が近年激増し、治安も悪くなってるが、それは世界的な兆候とも言える。 他方、今年に入って政府高官による永年の腐敗構造が勇気あるジャーナリスト達の命がけの告発により明るみになり,二人の前・元大統領がこの10月に相次いで逮捕された。三代前の元大統領への疑惑も今告発されており、国が大変な変革期にある事を皆が痛感している。
Q6. 襲われた後どうしたのか?
目の前のホテルに戻った後、直ちに電話でギドー・サエンス文化大臣(OSN1972年創立時の文化大臣でもあり、OSN生みの親)に報告と相談を行ない、彼の通報よって La Nacion(ラ・ナシオン)紙のカメラマンが駆けつけてくれた。現実を隠蔽せず直視しなければ状況は良くならない、外国人の私がこうした状況に遭遇したのは運命・使命だと感じたからである。血まみれの写真をホテルのロビーで撮ってから病院に運ばれ、深夜(12日)約1時間半鼻矯正の手術を受けた。 ところが翌朝質問にきた同誌の記者が別のカメラマンを連れてきて、「新聞の方針で血まみれの写真は小さくしか載せられない」と言うので、「昨夜の写真も十分な大きさで載せないのならばインタビューは拒否する」と言うと、最後は報告をうけ私の意図に共鳴した編集長の決裁で血まみれの巨大写真のみが掲載された。
Q7. その翌日(13日)からあらゆる新聞、テレビは騒然となり、共同通信が世界に配信する一大ニュースとなったが、彼等はどんな事をあなたに訊いたのか。
ジャーナリストのみならず皆が訊いて来たのは、「この国を今すぐ去るのか? OSN芸術監督の仕事はいつ放棄するのか?」との問いであった。私が全ての報道機関に対して述べた答えは次の通りである。
* 私、そして私達(OSN楽員)に与えられた崇高で重要な使命を、このような暴力によって邪魔させたりはしない。この暴力に対する私のリスポンス(反撃)は、翌々日(15日)の定期演奏会を指揮することである。この国と与えられた使命に背を向ける事ではない。
*4人組が幼い頃、拳銃の操り方ではなく楽器の奏で方を学んでいたら、このような事件は起きなかったであろう。
*国の腐敗が勇気ある報道機関によって、ようやく明るみになってきているが、それを見慣れた子供達がどのような(悪い)影響を受けて育ってきたかは想像に余りある。
Q8. 13日の練習、15日のコンサートの状況について語って頂けないか?
前日(12日)が祝日で練習が休みであった事もあり、13日練習冒頭の事務局長の報告で初めて事件を知った楽員がほとんどであった。チェチェの事件も相俟って想像を絶するショックであったという。私は、鼻の痛み、打撲による頭痛と、鼻血が止まらない状態ではあったが、椅子に座り手首から先だけを使う指揮で、三時間(休憩30分)のリハーサルを全うした。開始時に、「今朝目覚めてこう思った。今生きているのが不思議である。チェチェのスピリットが助けてくれたのかもしれない。 その為にも今週末はすばらしい演奏会にしたい。」と話し、交響組曲「シェヘラザード」を仕上げていった。暫らくして皆が泣いているのにようやく気が付いて、そこで初めて私は彼等が今経験している痛みが胸に迫り、私も涙が止まらなくなった。聴衆が総立ちで迎えてくれた15日の演奏会の後半「シェヘラザード」では、痛み止めと体力衰弱のため普段おこるはずのない私のメモリースリップが多発し指揮台に立っているもやっとの状態になった。すると楽員達は、指揮者の指示を想定しないアンサンブルに自発的に切り替えて曲を終了した。今まで経験した事の無い幸福感と暖かさを感じ た。
Q9. この経験をあなた、そしてOSNはどう生かしてゆくおつもりか?
2004年10月21日シニア・カルボOSN総裁と私は、文化省で記者会見を行ない、下記2点を発表した。
(1)OSNの公式スローガンとして ” Que los ninos cargen violines en
vez de armas " (子供達の手に、武器ではなくヴァイオリンを) を採択。全ての公演プログラム、ツアーに掲げて行く。
(2)チェチェ基金・奨学金 を設立し、子供達の楽器やレッスン代を支援する。
OSN楽員が教授を務める音楽院(インスティテュート)に通う500名の子供達のほとんどが、楽器を学校から借りており、実に3000名の順番待ちの子供達がいるのを指摘したい。 また、OSN団員(教授)達もまた、貸与された楽器で育ってきたのである。
(2) 鷲見(すみ)良彦 駐コスタリカ特命全権大使からロゲリオ・ラモスコスタリカ公安大臣への抗議文
「2004年10月13日 大臣閣下:
10月11日小松長生コスタリカ国立交響楽団芸術監督が強盗事件の被害者となった件に関して重大な懸念を表明します。<中略> 今回の小松氏に対する事件は偶然的な都市犯罪とも言えますが、たった一ヶ月前に同じ国立交響楽団員がサンホセ市で殺害された事件を想起させます。 日本大使館は、今次の小松氏への強盗傷害事件は、コスタリカにおける公共治安の悪化を示すものであるとして、重大な懸念を表明します。<中略>右に鑑み、サンホセ市の危険地帯と危険度等の統計を定期的に提供頂けるよう要請します。 また在留邦人のみならず、一般コスタリカ人に対する適切なる治安対策が講じられるよう要望します。<以下略>
特命全権大使 鷲見良彦
写し: ロベルト・トバル外務・宗務大臣」
(3) アベル・パチェコ コスタリカ大統領から小松長生への書簡
「2004年10月15日
国立交響楽団芸術監督 小松長生様
我が畏友 ドン・ギドー(サエンス文化大臣)が、 貴殿が遭遇した悲しい事件を詳説してくれました。
私は込み上げてくる哀しみと羞恥を表明したく存じます。 私たちコスタリカ国民は、あなたのとった行動に対し大きな賞賛と愛情をいだきます。
私は、可能な限りあなたの御力になり続けるものであります。
謹んで。
アベル・パチェコ・デ・ラ・エスプリエヤ 共和国大統領
写し: ギドー・サエンス文化大臣
2004年9月8日夜、OSNバス・クラリネット奏者のホセ・マヌエル・ウガルデ氏(愛称チェチェ)は楽器を奪おうとした暴漢の凶弾に倒れました。
2004年11月26日のOSNによるマーラー作曲交響曲第3番の演奏は、亡きチェチェに捧げられました。
下記は、それに対するチェチェの妹メラニアさんからの書簡です。
(4)メラニア・ウガルデ=キルさんからの手紙
国立交響楽団藝術監督 小松長生様
2004年シーズン最後の定期演奏会の演目(マーラー交響曲第3番の演奏)を、兄チェチェの為に捧げて戴きました御心遣いに、心より深い感謝の念を表したく存じます。
チェチェの身に起きた事を省みます時、この曲がいかに献呈にふさわしい曲であったかを表現するのに言葉が見つかりません。交響曲の冒頭は目覚め、「夏」がやってきます。新しい生命の誕生であり、それまでの荒涼とした自然(冬)と対比されます。そして、それに続く葬送行進曲。全てがチェチェの人生とその最後を想起させました。素晴らしい音楽家(チェチェ)、あの秀逸した人格に私達皆が抱いた愛情を、音楽を通して表現して戴いた思慮深さに対し,衷心より祝福させてください。
彼が去って、残された私達の心には空洞ができ、彼がもうこの世にいない事が未だに信じられません。ですから私は、いつも見慣れたチェチェの席で別の人が演奏している事に愕然としました。私は、いつも彼の姿をステージ上に見,天国のような音を奏でる楽団の中から彼の魔法のような音色が会場を包むのに慣れ親しんできました。プログラムのメンバー表に彼の名前がもはや載っていない事実を受け入れるのは大変な衝撃でした。私の胸中の哀しみをどう表してよいか解りません。
音楽だけをひたすら愛した者の命を奪うなんて、いったい誰の仕業でしょうか?私は何度この不正を憎み悶えたことでしょうか。でも他方で、赦すことの出来る勇気ある人々についても考えを及ばせました。調和(ハーモニー)を追求するためには壮絶な内的葛藤を必要とし、また内的尊厳を守る為には果敢に勇気を持って戦わなければならないのを私は知っています。そして、それらを実行するのが私達にとっていかに難しいかを認識したとき、私達から宝(チェチェ)を奪い去った者を赦す事を私は学んだのです。
暴力に対し武器で応酬するのは、柔弱、単純で、自ら低次元であると認めることになります。人の尊厳は、それを抑圧しようと試みるいかなる体制や主義(イデオロギー)より高位にある事を、けっして忘れてはなりません。憤怒と恨みを創る心中の怪物は、愛によってのみ制御され得ます。そうして初めて赦すのが可能になると思います。
改めまして、あなた、そして交響楽団・国立コーラス・児童合唱団の全ての方々に、あの感動的な演奏への感謝の意を表させていただきます。私の兄がそうであったように、皆さんはすぐれた音楽家であり素晴らしい人間であると、私に言わせてください。
貴方がた皆がチェチェに注いでくれました愛情に衷心より感謝いたします。どうかこの素晴らしい御仕事をずっとお続けください。交響楽団の演奏、音楽、笑い、ジョークや暖かい助言がある処には常にチェチェがいると感じます。私達が善い行ないをする度に、チェチェの魂が私達のオーラの周りに永遠にいてくれると感じます。
チェチェに静寂と安息を。
2004年11月27日
メラニア・ウガルデ=キル
写し 国立コーラス 国立音楽院児童合唱団
コスタリカの国立音楽センターに対する一般文化無償資金協力について
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