曲目解説集

ショスタコーヴィッチ  交響曲第10番

ドミトリ・ショスタコーヴィッチ (1906−1975)

交響曲第10番 ホ短調 作品93 (1953年初演)


ショスタコーヴィッチがレニングラード音楽院での卒業作品として若干18歳で書いた驚異的な交響楽第1番は、瞬く間にソ連国内はもとよりベルリン(ブルーノ・ワルター指揮)、フィラデルフィア(ストコフスキー)、ニューヨーク(トスカニーニ)にて取り上げられ、若くして世界的名声と注目を集め、ソ連にとっても国威発揚のために恰好の芸術家の登場であった。

ところが迎合しない彼は、やがて危機に直面する。 20世紀最高のオペラのひとつに今では数えられるオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1932年)が、スターリン圧政下プラウダ紙を中心に「安っぽく、エキセントリックで、旋律に欠ける」などと熾烈な批判を浴び、ショスタコーヴィッチは自らの作曲家生命そして家族生活の危機に瀕した。1937年に「正しい批判に応えて書いた、ひとりのソビエト芸術家の回答」に署名させられたこの天才作曲家の無念は如何ばかりであったろうか。 

交響曲第5番(1937年)で再び名声を取り戻し、第2次世界大戦中ヒットラーの戦火のもと決死の演奏とラジオ放送で民衆を鼓舞した壮大なる交響曲第7番『レニングラード』(1942)は、彼を圧倒的な存在に高めた。しかし沈痛な鎮魂歌である交響曲第8番(1943)、そしてベートーヴェンの『第九』に比肩されるとの前評判・期待が高かった交響曲第9番(1945:軽妙で編成も小規模な作品)が続くと、スターリンは彼の「身勝手」に激怒した。 

更に第2次大戦後ユダヤ人、知識人・芸術家への身の毛のよだつ弾圧が本格化し、ショスタコーヴィッチは、自殺の念もよぎる中で再び自己批判の声明に署名されられ、1年だけ勤めたモスクワ音楽院からも追放された(1948)。失意の生殺し状態は1953年3月スターリンの死まで続き、1953年夏から秋に猛然と書き上げたのが本交響曲である。多作の彼が第9番を書いてから実に8年が経っていた。

秘密警察による深夜のノックや拉致される隣人家族の叫び声に怯え、『踏み絵』を常に強要される世界では、暗号やほのめかしが防御法となる。彼の名前のスペルのドイツ語からなる[レ・ミb・ド・シ]の音型が全曲各所にあまた埋蔵され、ついにはフィナーレのコーダでティンパニーによって連呼・強打される。芸術家としての矜持と決意を、強圧者には判らないように宣誓しているものであろう。

Dmitri SCHostakovich [レ・ミb・ド・シ] 
レ  : D  (ドミトリ)
ミb  : S=Es(独)  (ショ)  
ド   : C (ショ)
シ   : H  (ショ)

<第1楽章> Moderato
冒頭で漆黒と絶望のなかに漂う自分([レ・ミb]イニシャル;第1ヴァイオリン・ビオラの最初の2音)は、哀しみの唄(クラリネット)、昂ずる激情と失意、不気味な踊り(第2主題)、それを強制される民衆の絶叫などを経て、虚ろで孤独な(ピッコロ)感情に身を沈める。

<第2楽章> Allegro
暴力的に嵐の如くあっと言う間に駆け抜けてゆく。常にパワー全開だが繊細さのかけらもないエゴイスティックな強圧者(おそらくはスターリン)を象徴していよう。

<第3楽章> Allegretto
ホルンで優に10回以上も奏され、そのほとんどが夢想的なワルツに続く暗号音型 [ミ・ラ・ミ・レ・ラ]の真の秘密は、前述モスクワ音楽院での教え子でアゼルバイジャンのピアニスト・作曲家エルミラ・ナジロヴァ(1928−)が、1990年夏ショスタコーヴィッチからの多数のラブレターを初めて公にして明らかになった。手紙には、第10番の作曲過程、本楽章のホルンの音型が彼女であること等が情熱的に述べられている。他方、曲の冒頭4つの音(第1ヴァイオリン)、最後のピッコロ・フルートの4音をはじめ、作曲家の[レ・ミb・ド・シ]音群・音型も夥しく執拗に登場する。絶望的な夢想と憧憬にみちたワルツである。 なお[ミ・ラ・ミ・レ・ラ]が、マーラーの最晩年の諦念・辞世の唄ともいえる『大地の歌』のホルンの冒頭の音であるのは明白で、音型が「人生は暗く、(そして)死も暗い」という歌詞と連関していることに皆気がつくことを作曲家は予想していたに違いない。それが目くらましとなって、エルミラへの慕情は二重に護られていたわけである

ELMIRA Nazirova  [ ミ・ラ・ミ・レ・ラ]
ミ  : E
ラ : L = la
ミ : M = mi
レ : R = re
ラ : A

<第4楽章> Andante - Allegro
鵺(ぬえ)が啼く暗黒の夜、あるいはスターリン圧政への永い忍従を象徴するかのような前奏に続き、ひょうきんで民族色豊かなアレグロが始まる。暗い過去やノスタルジックな回想、エネルギーと喜びに溢れた踊り。最後は金管やティンパニーが最強音で執拗に[レ・ミb・ド・シ]即ち彼の名前を繰り返しながら終わる。 ようやく自己の存在を作品を通して示すことが再び可能になったのである。いまだ国はスターリンの喪に服す中、幾重にも巧妙にガードを固めた、ショスタコーヴィッチの密やかな勝利の祝宴かもしれない。 

小松長生 (2010年1月29日セントラル愛知交響楽団定期演奏会の為に)      

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