質問 「マエストロ小松、この交響曲はいったい何を言わんとしているのですか?」
死後、恐れ戦いた魂は、筆舌に尽くしがたい痛みと渇望の中に横たわっている。そして魂は、地獄のような暗闇と『最後の審判』への恐怖を体験する。やがて、天使達の声を耳にし、羽を得た魂は、再び甦る(生きる)ために、原光へと翔び入り同一化してゆく。
質問 「この交響曲はとても長いですね。 どのくらい長く、また何楽章あるのでしょうか?」
5楽章有り、全曲約85分。第1楽章(約25分)と第5楽章(約35分)は、とくに長大だが、、メゾ・ソプラノが歌う第4楽章は、たった5分である。
質問 「各楽章について、語っていただけますか?」
<第1楽章>
この世を去った魂は、恐怖と怒りをもって、次のように自問する。「この人生は一体何だったのだ?」「我々に死後の世界は果たしてあるのか?」「なぜ私は苦しまなければならなかったのだ?」「私の人生に意義はあったのだろうか?」「わたしの人生は全く無駄だったのか?」 (チェロと弦バスによる冒頭部分) (四拍子の)行進は、地上で死者を嘆き哀しむ葬礼の人々の行進と、死後『最後の審判』に連行される魂の行進という、重層的(同時進行的)な役割を果たす。 道すがら、魂は至上の美しさと煉獄の両方を観る。
<第2楽章>
この南ドイツのゆっくりとした三拍子の踊りでは、魂が、無垢で大望をもっていた青年時代を回想する。しかしながら、その若年の時ですら、死と劫罰への恐怖がしばしば彼を苦しめたのであった。
<第3楽章>
聖アントニウスが魚たちに説教するが、これは、愚かな人間界への説教の隠喩である。 即ち、かます(盗人)、うなぎ(好色)、たら(蒙昧)、その他の魚たちが、目くるめくダンスを泳いでいる。 聖アントニウスが地獄と天国の両方を生々しく説き描くと、魚たちは驚愕し拍手した。 しかし、次の瞬間には説教をまったく忘れ、相変わらず馬鹿げたダンスを永劫に続けるのである。 尚、地獄と天国の情景は、第5楽章の冒頭においてフルスケールで再現される。
<第4楽章>
冒頭ピアニッシモで歌われる “O Roschen Rot!” (おお、小さな赤いバラよ!)は、 弔いの人達によって手向けられた小さな赤いバラに気付き、はじめて魂は自分が死んでこの世を去ったことを諒解する事を示す。 (そして)魂は、葬礼のコラールを聴く。 「言い難い渇望の中に男が横たわっている。言い難い苦悩の中に男が横たわっている。」と続く。 この世を去った魂が暗い道を歩いていると、天使に遭遇する。 天使は彼を天国に行かせないよう追い返そうとする。しかし、魂は言う。「おお、いやだ。 私は追い返されたりするものか。 私は神から来り、従って神へ環る(もどる)のだ。親愛なる神は私に光を与え、その灯りで私を永遠で至福の光(原光)に導いてくれるはずだ。」
<第5楽章>
生々しく、ハリウッド映画を彷彿とさせる地獄と天国の描写で、この巨大なフィナ−レは始まる。そして魂が『最後の審判』の際垣間見るシーンが続く。中間部では、実際に大地が揺れ墓穴が開く(身の毛のよだつ)光景が想像されよう。戦慄した魂達の憐れを乞う絶叫が聞こえるであろう。他方、“Dies Irae”(神の怒り)の主題による行進は、原光に環ると決意した魂の勇気の戦いを表現する。
『最後の審判』を遠くに聞きながら、傷ついた魂は天使達の声に呼びかけられる。メゾソプラノのソロは、震える魂を安寧するために、「おお、私の分身よ、何も無駄ではなかったと解りなさい」と語りかける。コーラスが続いて、「震えるのをやめよ!」 「(再び)生きる心構えをせよ!」と、魂を勇気付ける。すると、解き放たれた夥しい数の魂たちが四方から悦びに満ちて飛びきたり、「(再び)生きるために死ぬのである」と宣言する。 そして魂たちは皆至福の原光の中に溶け入ってゆく。
質問 「マーラーは、最終楽章で、舞台裏のバンダ(楽隊: 金管と打楽器)を使いました。 バンダの役割は何ですか?」
ホルンによる召集ラッパは、『最後の審判』が始まるのを告げるためである。コーラスの入りの直前で、マーラーは4本のトランペットを舞台裏で使用する。 その時、ステージ上ではピッコロとフルートが天使たちの臨在を表現する。これらの楽器の立体的な書法は、新約聖書マタイ伝24章31節を反映する。即ち、「『最後の審判』において、主の天使は、選ばれたる者たちを、天の端から別の端にいたるまで四方から、集めてくる。」
質問 「最終楽章に登場するコーラスの役割は何ですか?」
天使たちの声である。 天使たちは、震え慄く死した魂たちを慰め癒し、そして原光へと導く。
質問 「マエストロ、 メゾ・ソプラノのソロが第4楽章と第5楽章の両方に登場します。その役割について教えてくれますか?」
第4楽章では、苦悩する魂の声である。 第5楽章では、メゾ・ソプラノとソプラノのソロ両方とも天使の声である。
質問 「曲の冒頭から曲の終わりまで弦楽器によるトレモロが多用されている点に、聴衆は気付かざるを得ませんが。」
弦のトレモロには、2つの全く異なった役割が与えられている。一つは、第1楽章の冒頭のように、憐れな死した魂が怒りと凄まじい恐怖のために震え慄く様を表現する。 それと対照的に、最終楽章の終局部で現れるトレモロは、燦然と輝く原光を描く。
質問 「マエストロ小松、 この曲を指揮することは、あなたにとってどのような意味を持ちますか?」
この交響曲は、演奏者が自分自身を直視し人類の根源的諸命題に取り組むのを余儀なくさせる。そしてまた、精神的にも肉体的にも、私達演奏者が極限まで全精力を尽くす事を強いる(怖るべき)曲である。それ故、私達は安易な道に逃げ隠れする事は不可能だ。この作品で死した魂は勇敢な挑戦と戦いを選択するが、私達の演奏そのものも同様に勇気ある挑戦と戦いでなければならない。 この作品を魂を込めて壮烈に演奏するならば、宇宙(ユニバース)のあまたの魂---死後の魂だけでなく、愛する人達の喪失を今もなお嘆き哀しみ続ける今生の人々の魂をも癒せうるのだと、私は堅く信ずるものである。新約聖書からの次の2つの引用が想起されよう。
ヨハネ伝3章15節 「御子を信ずるものは滅びず、永遠の命を得る」
ヨハネ伝3章17節 「神が御子を世に遣わされたのは、世を罰するためではなく、御子によって世を救う為である。」
(了)
この対話は2003年11月のコスタリカ国立交響音楽団定期演奏会プログラムのために書かれたものです。
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