エッセイ

津坂テーラー

私の母が今でもよく受ける質問に、「お宅の息子さんは、家でも蝶ネクタイしてなさるの?」というのがある。又、私も「いったいどんな事考えて暮しているんですか。」とか「一日中口をきかないのでは?」との質問に多々遭遇するにつけ、どうも指揮者の日ごろの生態はミステリーに包まれたものに映るらしい。

仕事柄堅苦しい服装(燕尾服・タキシード)を強いられるので、普段は思い切りリラックスできる格好をしている。又、楽譜を勉強する際は、集中しやすいように、マウイ島で買ったアロハ・シャツや半ズボンなどを着て、体を締めつけないようにしている。

「楽譜の勉強」で思い出したが、「どうして長大な曲を暗譜で指揮出来るのか。」ともよく聞かれる。そもそも「指揮者は一日中鏡に向かってアクションの練習をしている。」との迷信があるけれども、指揮者の勉強は机に向かって楽曲を丹念に分析したり文献を調べたりするのがほとんどだ。幸いにも、私はフォトグラフィック・メモリーに恵まれていて、分析・解釈し終わった曲は、演奏中も各頁が脳裏に浮かんでくるのでスコアを使わなくて済む。
ところが、残念ながらスーパーマーケットのスキャンの如く、楽譜を目に晒せば頭に入るというわけにはいかない。事実、電話番号はどうしても覚えられないし、先日も約50分かかるブラームスの交響曲第二番などを暗譜で指揮したコンサートのあと、駐車場でどこに車を停めたか思い出せず、周りにあきれられた。

服装に話を戻すと、指揮者はステージで常に後ろ姿を観客に見られているだけでなく、楽員にも動作を通じて視覚的に音楽を伝えなければならないから、ステージ衣装は命である。1982年以来私がお世話になっているのが日本を代表するテーラー、津坂友次郎・友一郎の両氏(父子)だ。各賞を総舐めしディオール・ジャパンなどのアドバイザーを勤める津坂テーラーは、ビジネス・リーダー、政治家、ダンスの世界チャンピオンの燕尾服、横綱の断髪式用タキシードなど幅広い注文を手がけている。

16年間使い続け今でも新品のように見える私の燕尾服について言えば、指揮の激しい運動で擦り切れやすい胸元の襟には、相撲まわしが使ってある。又、テイルの先端には、跳ね上がらないよう、小さな釣り用の錘まではめ込まれている。私は日本人典型のがに股であるが、膝頭の内側に足の軸があるが如く巧妙にデザインされているので、五嶋みどりさんに「ステージでは突然足が長くなったように見えるね。」と指摘されたりする。しかしながら、一番重要なのは、懐・肘・肩を精妙に工夫してあるので、着心地がゆったりとしていて、かつ指揮の間襟がパクパクしないし、手首に出るシャツのカラーの長さも動作にかかわらず一定なのが不思議だ。

私にとってのチャレンジは、サイズを変えないことだ。意外かもしれないが、指揮者の動作は体の限られた部分しか使わないので、週に2〜3回運動クラブに通って、全身を鍛えるようにしている。又、約2時間の演奏やリハーサルの間、指揮者は間断なく判断をくだし続けなければならない。そして身体が弱ってくれば脳のくだす判断も鈍くなるので、どうしても日頃から修練しておく必要がある。

然るに、津坂テーラー製のタキシードや燕尾服に袖を通した瞬間別人になったような気持ちになり、コンサートに臨む心構えが整う。又、それだからこそ、普段の生活では人一倍リラックスした気分と格好になりたがるのかもしれない。


寄贈文「小松様と洋服と私」津坂友一郎さん

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