エッセイ

明新会150周年に寄せて



1976(昭和51)年藤島高校卒
指揮者 小松長生

 指揮者になるには、バンカラな気風の藤島で”まっとうな”高校生活を送り、多彩な面々の学友と知り合うのが重要なのではないかと直感し、既に1月に合格していた東京藝術大学附属音楽高校を入学辞退して母校藤島に進んだ。結果として3年間ブラスバンドの活動に体育会系の乗りで明け暮れることになった。2年の部長時に5年ぶりに県を征し、翌年は後輩達が北陸大会で強豪富山商を破って全国大会に駒を進めた。バレンタインデーにチョコレートを遂に一枚ももらえなかった事を除けば、我が高校生活に悔いはない。

 それにしても、なんと明るく開放的な雰囲気であったことか。学校祭では和田周平先生(後の第17代校長)が覆面レスラーのデストロイヤーに変装して同僚の先生に強烈な『足四の字固め』をかけたり、各部活動にしても皆夜遅くまで一生懸命取り組んでいて若々しいエネルギーが校内に満ちていた。ちなみに指揮者になる夢を公言していた私だが、校内合唱コンクールでは1,2年とも指揮をして優勝できず、3年5組になって指揮を坂井康男君(別名タイガー・ジェット・シン)、私がピアノ伴奏(派手で不必要なスタンドプレー付き)との組み合わせで初めて勝てた。嬉しかった。私自身は記憶していないのだが、その練習中ピアノの席からよく歌を遮って「オエー、OO、ほこんどこ、ひっでもんに音はずれてるぞ!口だけ動かして歌うマネしてれま。」と言い放っていたという。言われた本人は今でもよく憶えているそうだ。チョコレートが一枚も来ないはずである。こうして思い返してみると、藤島での3年間が今の私にいかに重要な影響を与えてくれたかを痛感する。 

 母校が美しい自然と貴重な伝統文化に恵まれた故郷福井にあるというこの幸運。自分のふるさと・友垣の大切さが解かってくるほど、他の人々の各々の郷里への思いへの理解が深まってきたように感じる。

 私が指揮者として向き合うドボルザーク(チェコ)、ショパン(ポーランド)、ラフマニノフ(ロシア)らは皆遠く故郷を想い傑作を創り出した。加えて、一生に影響を及ぼす少年時の記憶と繊細な情緒には、ふるさとでの原体験が強く反映される。 

 思えばゲーテ、ベートーヴェンをはじめ古今の偉大な芸術家達はすすんで自然の中に霊感を求め、天上の絶対的存在との交感・同一化を願った。もし私達演奏家が作曲家のそうした心情に思いを馳せず、また、自然を愛でてその神性に謝することができないならば、演奏は表層的そして無意味である。

 そう感じるほどに、素晴らしい高校生活を藤島高校で送ることができた我が身の幸運が諒解されてくるのである。

明新会


母校・福井県立藤島高校の同窓会『明新会』年次総会が、来る5月24日行なわれ、51年卒の私達の学年が幹事学年である。

その名を幕末の賢人・橋本左内が館長を務めた福井藩校『明新館』に由来する『明新会』の総会は、長老から大学生までが多数集い毎年大変な盛り上がりを見せる。杉田玄白(蘭学医師)、宇野重吉(俳優)、俵万智(歌人)等を輩出した、自由でバンカラな気風は今も母校に残っている。
 
俵万智氏は、「藤島にある『伝統』の重さは、かえって自由をくれた。多少やんちゃなことをしても、伝統がドンとあるので大丈夫なのだ。私が、短歌という伝統ある世界で、やんちゃなことをできたのと、それは似ている」と書いている。
 
2年近く前から、51年卒の者達は実行委員会、各種委員会、ホームページを造りワクワクしながら準備をしてきた。総会前日には、数十名の同級生が講師となる『ようこそ先輩』の授業も藤島高校であり、私も「指揮者の仕事」の授業を担当する。生徒たちには割り箸を持参してもらうつもりだ。
 
「時空を超えたハーモニー」と題打った総会では、講演を担当させていただく。講演といっても、昔私自身部長をした吹奏楽部の後輩諸君にOBも加わって、エルガー『威風堂々』も演奏する。とても楽しみである。
 
翌5月25日には東京でリハーサルがある。24日夜の芦原(あわら)温泉での『明新会大宴会』は遠慮しようと思ったら、実行委員会メンバー達から昔変わらぬ口調で,「小松!ほんなこと許されると思うんけ!?」と一喝され、懐かしい気持ちになった。
 
25日は、朝一番の汽車で芦原温泉駅から東京にむかうことにした。

 

(2003年5月)



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