エッセイ

キエフ Part 3 マーラー交響曲第2番 復活

そのビロクールの絵は、草花や蔦の中にポッカリとあいた窓のような空間のかなたに、川、広々とした農場、トラクター、そして点のような二人の働く男達が見える。人物が描かれているだけでも異例なのに加えて、手前の草叢をよく見ると、かごの中に白いハンカチが敷かれ赤い小さな薔薇が置かれているではないか。『コルホーズ農場』(1948−1949)は、トラクター事故により農場で父親と息子を亡くした家族が、友人カテリーナに思い出となる絵を依頼して描かれた。川の向こうの美しい草原に今も元気にしている天国の父と子を表現しているのである。



私は、はやる気持ちを押さえて、老婆に赤い薔薇の象徴するところを問いただした。「スラブでは、赤い薔薇は死者へ手向けるもので、手前の赤い薔薇とハンカチは二人の安寧と将来の再会を願う気持ちをこめたものだ。」というではないか。そのとき、私の脳裏には1901年にマーラー自身が交響曲第2番の第一楽章に関して書いた標題文(アルマ・シントラー宛書簡)の冒頭、即ち「われわれは愛する人の棺の前に立っている。」が浮かんできた。そうだった、この交響曲はスラブの地で生まれ育ったマーラーが、一人の勇者の葬礼として、その魂を弔う曲として作曲したのだった。たちまち第4楽章冒頭のアルトの おお、赤い小さな薔薇よ!モ が 唐突にしかも最弱音(ppp)で歌われる謎が氷解する心地がした。
  
即ち死した勇者の魂は、自分の棺の上あるいは胸の上に置かれた赤い小さな薔薇を観止め、自分の死をはじめて諒解し愕然とするのである。しかも、メ彼は困窮の極みに横たわっている! 彼は苦しみの極みに横たわっている!モから、肉体を離れた事も相俟って声にならない。だからこそ、気がつくと私は広い道をたどっていた。 すると天使があらわれ、追い返そうとした。 ああ、いやだ! 私は追い返されたりするものか!モと続くのである。
  
マーラーは、第ニ番最終楽章において灰と化した肉体から魂が最後の審判に引っ立てられる図を描き、第八番の交響曲では、ゲーテの『ファウスト』を題材に据えて、肉体と霊魂の遊離・浄化と真正面から取り組む。また、第3番では、各楽章に表題をつけ「野の花たちがわたしに語ること」 「森の動物たちがわたしに語ること」 「人間がわたしに語ること」 「天使たちがわたしに語ること」 「愛がわたしに語ること」そして「子供がわたしに語ること」で結ばれる。「子供」は、ゲーテ『ファウスト』の最末尾に登場する、生後まもなく死んで最も穢れのない状態の魂のことでマーラーの別稿では、「天上の生」と言いかえられている。
  
然るに、「赤い小さな薔薇」は、第2番を葬礼・棺への手向けの音楽と位置付けるスラブ出身のマーラーにとってごく当たり前の選択である。しかも、深い苦悩と痛みからの魂の救済、死とそのあとに訪れる生のテーマを終生追求したマーラーは、モおお、赤い小さな薔薇よ!モの一句によって、慄く死者の魂に思いを馳せ、深い優しさ、同情、そして愛情を注いだのである。
(2002年11月)
   
このエッセイ執筆にあたり、在ウクライナ日本大使館の本田均大使、中島英臣参事官、岩崎薫派遣員ムいずれも当時の官職名ムに多大なご厚意を頂戴しました。ここに御礼申し上げます。


マーラー 交響曲第2番『復活』小松長生氏との対話

キエフ Part 1 キエフ Part 2

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